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ΑΙΩΝ

瞳の書 01-1

《アントロポス》

我が名は真理を掴み、生きることそのものの名。私は人であり、ものであり、獣であり、樹木であり、神であり、悪魔であり、またそれらのどれでもない。如来ではなく、如来である。法であり、またそのすべてを離れ、またそのものである瞳である。

,汝らは思うがよい。存在を。ここで私は無を語らねばならぬ。汝らが欲するなら説き明かそう。

無とは即ち、本質である。即ち、すべてである。無であるが故に、すべてを包括する。故に、無限である。故に、違うものを同時に持つ。そしてその相対性によってその姿をうち消しあっている。存在は実に無の中にある非存在の相反するものである。そして、存在とは無から分かれることであり、その本質において無とは変わらないものである。

ここで汝らは無について考えてはならない。何故なら、すべての矛盾すら含むほど完全であり、限りないからである。無を考えることにより、汝らは無に落ち込む。それは何も意味しない。故に、思いを巡らせてはならぬ。しかし、汝らの本質である存在について語るためには、無の特性を知らねばならない。

ここで無と分けることにより、無はその本質を失うことに気付くであろう。分けると言うことは存在そのものであるから。では無の特性について語ろう。

無は無であるが故に、すべてを含む。1と∞、善と悪、過去と未来等のようにである。そしてそれらは相反するものであるが故に、その特性を消し去っている。そして、善と分けるとき、その瞬間悪を顕わしている。そのように分けることにより、存在は生じる。故に、存在の本質は無であることが分かるだろう。そして善と分けるとき、悪に嵌り込むのである。そして悪と分けるとき、即ち、二つの相反するものを分けるとき、我々はその対立から離れるのである。そしてこれらはすべて私たちの本質である無と何ら変わらない。即ち、分けることにより生じるのである。

ここで生じるということ、もしくは存在するということは何であるか?即ち、無から分けることである。これは我々の、即ち、存在の本質であり、それは例えでなくそのものである。ここで私たちは無の内の存在を、そしてその本質を知らねばならない。

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